器の旅 〜瀬戸〜



平安時代から続く陶芸の街、瀬戸。
資料館のおっちゃんから、1時間にわたり瀬戸の陶器の歴史について話を伺いました。

平安時代、室町時代までは関西に、鎌倉時代以降は関東に製品は出荷され、せとものは焼き物の代名詞となる。鎌倉時代は、瀬戸が鎌倉幕府の直轄地になったことから、製品は関東に流れるようになったという。一方で関西には唐津から焼き物が流れ、近隣の備前や信楽のものが多く流通する。

桃山時代以降、伊万里を代表する日本の磁器は東インド会社によって、ヨーロッパに流通し、高値で取引される。その原因には、当時の磁器の産地である景徳鎮が、明朝の没落によって生産中止になったことだそうだ。その影響で伊万里は栄える。しかし、明朝の後、清朝の成立により景徳鎮は復興、次第に伊万里は海外で流通しなくなり、その流通は国内へ。

当時、磁器を作る技術を持たなかった瀬戸は次第に苦境に陥る。そこで、陶祖加藤それがしを伊万里へ派遣し、技術を学び、瀬戸でも磁器が焼けるようになり、瀬戸は復活する。

瀬戸と伊万里の違いは、その製法にある。
伊万里は陶石と呼ばれる磁器を作るための石から作られる。一方で、瀬戸は粘土に長石と呼ばれる石を混ぜて、白く硬い陶器を作る。

絵付けの製法も違っている。伊万里は朝鮮の陶工の流れを組み、絵付けは中国風だ。水墨画のようなイメージが近い。瀬戸は、日本画の絵師を呼び寄せて、絵付けを行った。だから、絵の濃淡が平面的で、水墨画的な伊万里とはグラデーションが異なる。

うんぬん。。。


瀬戸 本業窯を訪問。
江戸時代から瀬戸で約300年続く窯元で、今も手工業によって器が生産されている。



文化財に指定されている登り窯は現在は使われていない。
効率の悪さから、先代からガス窯に変わってしまったそうだ。


ギャラリーで器を物色していると、8代目が色々と説明してくれました。
当時の瀬戸は、焼き物が盛んで工業化がどんどん進んでいった。しかし、結果として工業化した器は安物として、中国産などの器と競合するようになると、どんどん価格が安くなって、産業は衰退していった。本業窯は当時から頑なに手工業にこだわってきたおかげで、今も存続できているのだと。逆に今は人の手で作られている点が評価されている。

ただ、それでも器を作って食べていくのは厳しいという。
そもそも、器などそれほど売れるものではない。一度買えば長持ちする。全国の百貨店で扱ってもらったり、ネットで販売したりしているが、それでも売上はなかなか厳しいそうだ。
この前も、8代目の嫁と今後の方針について話あったと、切々と厳しい現状について、悩みを打ち明けられた。

それでも瀬戸はまだ器を作ることを本業として産業が成り立っているが、近隣の陶芸の産地である常滑は完全に観光地化によって、食べていっているという。もはや器を作って売るだけではやっていけないそうだ。

つらいぞ、瀬戸。


結果、器を買うことになりました。。。
まあ、とても良いものだったので満足はしてますが。

コメント

人気の投稿